1543年、鉄砲が伝来する。ポルトガル人が種子島に漂着し伝える。
鉄砲伝来の経緯
1543年(天文12年)9月23日、種子島に一艘の船が漂着(ひょうちゃく)した。100人余りの乗客の、誰とも言葉が通じなかったが、西村時貫(にしむらてんしゅう)はこの船に乗っていた明(みん)の儒者(じゅしゃ)・五峯と筆談した。ある程度事情分かったので、この船を島主・種子島時堯(たねがしまときたか)の居城がある赤尾木(あかおぎ)まで曳航(えいこう)するように取り計らった。
その後、時堯(ときたか)が改めて筆談を行ない、この船に異国の商人の代表者が2人いて、それぞれ牟良叔舎(フランシスコ)、喜利志多佗孟太(キリシタ・ダ・モッタ)という名であることが分かった。時堯(ときたか)は、この2人から二火縄銃(ひなわじゅう)2挺を買い求め、家臣(かしん)の篠川小四郎(しのかわこしろう)に火薬の調合を学ばせた。
ポルトガル人が伝えたとされる火縄銃(ひなわじゅう)と八板金兵衛清定制作の国産1号
出典:https://assets.st-note.com/production/uploads/images/12196889/rectangle_large_type_2_d1766e0110050dffbb08d1ea9df5ba4e.png?width=2000&height=2000&fit=bounds&format=jpg&quality=85L
時堯(ときたか)が射撃(しゃげき)の技術に習熟(しゅうじゅく)したころ、紀伊国根来寺の杉坊某(すぎのぼう)もこの銃を求めたので、津田監物(つだけんもつ)に1挺持たせて送り出した。さらに、残った1挺を複製すべく、八板金兵衛清(やいたきんべえきよさだ)ら刀鍛冶(かたなかじ)を集め、新たに数10挺を作った。
また、堺からは橘屋又三郎(たちばなやまたさぶろう)が銃の技術を得るために種子島へやってきて、1、2年でほとんどを学び取った。
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